流儀の創始

日下捕手開山竹内流は歴史記録上において最初に登場する最古の柔術流派であり、「日本柔術の源流」と評されている。

 

竹内流の流祖、竹内中務大輔久盛(たけのうち なかつかさ たいふ ひさもり)は、文亀三年(1503年)京都竹内家の嫡流に生を受けた。竹内家の遠祖は清和天皇の孫にあたる源経基で、天皇に仕えた京の公家の家筋であった。応仁の乱を経て戦国動乱の真っ只中であった永正年間(1518年頃)に久盛は新天地を求め京を離れ美作国へと移った。美作にて久盛は地方の武士を束ね、一ノ瀬城城主となり日夜武芸の鍛錬に励んだ。

 

久盛は、深山幽谷の山中に鎮座する垪和郷三ノ宮神社に籠もり愛宕神に願いを込め、六日六夜の間、断食の上で立っては二尺四寸の木剣を揮い、座しては瞑想に耽る荒行に臨んだ。満願の日の天文元年(1532年)旧暦6月24日、老翁の姿で現れた愛宕神より、腰廻(小具足組討)二十五ヶ条、捕手五ヶ条の神伝を授かった。

 

今日においても旧暦6月24日を流派創始の日として祝い、宗家のもとで「流祖祭」の神事が執り行なわれ、多くの門人・信徒が全国より竹内流の本部へ集う。 

流儀の完成

2代目久勝は、武者修行の旅に出て諸国を廻った。旅の途中で多くの武芸者と立ち合い、決して遅れをとることがなかった。また久勝の評判を聞き伝えて師弟の礼をとる者が多く、多くの武芸者を門人にし指導した。久勝は廻国の真剣勝負と厳しい鍛錬を通じ竹内流の奥義妙法を更に発展させた。

 

久勝の名声は高まり元和6年、後水尾天皇に武芸を上覧する栄誉に恵まれた。後水尾天皇は久勝の妙技秘術に感嘆し、

「日下捕手開山(ひのしたとりてかいさん)」(天下一の捕手術の使い手)の称号を賜った。また「宮中羽林」(天皇護衛役)の栄誉に任じた。宮中に参内を許された久勝は関白近衛公にも目通りを許され、武芸を披露した。その絶妙な技に関白は心酔し教えを請い、印可状を授けられるまでに至った。関白は自らの冠の紫の緒を解き、それを迅縄に使うよう久勝に授け、許しを得た久勝は以降竹内流の捕縄を永代紫縄とするよう定めた。

 

3代目久吉も武の道を極めるべく、諸国遍歴の修行を行なった。各地で試合に臨んで勝利し、竹内流の武名は更に高まった。

京にあっては、関白鷹司房輔公に竹内流の妙技の数々を披露し、感激した関白は広次の懐剣を褒美に与えた。また自らも竹内流の門人となり免状の位に至った。関白の奏上により久吉は時の霊元天皇の謁見が許され、

「日下捕手開山」の称号と、永代「藤一郎」の襲名の御綸旨を賜った。これ以降現代に至るまで代々の宗家は「藤一郎」の名を襲名している。久吉は深く奥義を探求し、竹内流心要歌を集大成し、三徳抄、五常の徳を説き竹内流精神を確立した。

ここに、久盛に始まる竹内流は、久勝・久吉の三代をもって完成された。

  

また、久勝、久吉ともに武名が高く諸大名から武術師範として召抱えの要請を受けたが、流祖久盛による「宗家の武家奉公止め」の家憲を守り固辞し続けた。久勝・久吉が諸国武者修行を行なった際、技量に感服し門人となって教えを受けた多くの武芸者達がそれぞれ一流一派を編み出したところから、竹内流の流れをくむ多くの諸派が生まれた。

流儀の伝承と現在

竹内流は身分の差別を立てず、広く百姓・町人にも門戸をひらいた。そのため竹内流は民衆の間にまで広く浸透し、このことも竹内流が多くの流派に影響を与える要因となった。また、「作州で棒を振るな」という諺が伝わっている。これは、他国の武芸者が安易に作州で棒の腕前を自慢すると百姓に返り打ちに合うため、これを戒めた言葉である。竹内流が身分を越えて浸透し、修行者が武芸に秀でていたことを物語っている。

 

かくして竹内流は代々の宗家と門人により大いに栄えた。

しかし天保7年、竹内家を難事が襲った。

8代目宗家久愛が45歳の若さで亡くなり、子の久雄・久種は十五歳・七歳と若く、家法流儀の奥義を極めるには未しという重大な危機を迎えた。この時、一門一族により淡州で武術指南を行なっていた門人の池内雅門太が竹内道場へと呼び戻された。

池内雅門太は7代目宗家久孝から秘法を伝授され、印可を授かった高弟であった。竹内家への報恩のため、雅門太は藩主の許しを得て竹内道場に戻り、久雄・久種の指導養育に当たった。また、流祖より受け継がれる秘伝文書、兵法書、武芸書など、莫大な資料を書写し、後世に伝え残すために大変な努力をした。一門一族は雅門太を敬愛し竹内姓を授け、雅門太は家督を継ぎ、9代目竹内藤一郎久居を襲名した。また、「武極」の謚が授けられた。

 

雅門太の後見により流儀の奥義を極めた久雄が10代目宗家を継いだ。また、同じく大成した久種は流儀断統を未然に防ぐために立てられた分家の当主となり、藤十郎を名乗った。ここに相伝家が生まれ、当主は藤十郎を襲名するようになった。

こうして天保初期に訪れた流儀の危機も、無事に切り抜けることができた。

 

つづく幕末、明治、大正、昭和の激動の時代も竹内流は宗家と門人らによって守り続けられた。 

 

現在の宗家は第14代竹内藤一郎久宗であり、門人を束ね古伝の技法の指導・伝承・普及に努めている。

系譜

 

     宗家

 流 祖       竹内中務大輔久盛

2代目  竹内 常陸介久勝

3代目  竹内 加賀介久吉

4代目  竹内 藤一郎久次

5代目  竹内 藤一郎久政

6代目  竹内 藤一郎久重

7代目  竹内 藤一郎久孝

8代目  竹内 藤一郎久愛                相伝家   

9代目  竹内 藤一郎久居   -------------------   9代目     竹内 藤十郎久種

10代目 竹内 藤一郎久雄                              10代目 竹内 藤十郎久守

11代目 竹内 藤一郎久則                              11代目 竹内 藤十郎久充  

12代目 竹内 藤一郎久継                              12代目 竹内 藤十郎久博

13代目 竹内 藤一郎久教                              13代目 竹内 藤十郎久武

 当 代   竹内 藤一郎久宗